(2010年2月16日取材)
黄金堤に別れを告げてレンタサイクル赤馬Go!を南に走らせると西林寺というお寺があった。ここに日本人として最初に南極探検を企てた白瀬矗(1861-1946)の墓碑がある。
白瀬もまた不遇の最期を遂げた男であった。秋田県金浦に生まれた白瀬は明治43年(1910)に隊員27人とともに木造帆船で南極を目指した。南緯80度5分に日章旗を立てて「大和雪原」と命名。英雄として凱旋帰国した。だが渡航費の借金返済に奔走した末に豊田市内で波乱の生涯を閉じた。翌年、次女が吉良町の学校に勤務することになり、遺族は同町に転居。昭和26年(1951)に白瀬の妻が死亡すると次女は2人を西林寺に仮埋葬した。
昭和32年に遺骨は白瀬の郷里の寺に分骨されたが、翌年吉良町史跡保存会によって西林寺に墓碑が建られた。
墓碑の周囲には南極観測船初代「しらせ」のスクリュー(平成21年9月設置)やペンギンのモニュメントなど白瀬の偉業を称える記念碑が多数ある。
白瀬の墓碑からさらに南下して金蓮寺へと向かった。ここの弥陀堂は愛知県内にある三つの国宝建造物のうちの一つである。
境内に入ると掃き清められた白砂の向こうに美しい弥陀堂が建っていた。
「以前、有名大学の教授の吟行にお付き合いしてここを訪れたことがあります。教授は弥陀堂の俳句をひねりたいとおっしゃっていたが、お堂の前、そう、ちょうどあなたが立っているところで『美しい。実に美しい』というだけで俳句が出てきませんでした。松島や ああ松島や 松島や―みたいなものですなあ」
赤馬Go!で同行してくれた地元ボランティアガイド「吉良あないびとの会」の黒部五郎事務局長はそう言って笑った。
金蓮寺弥陀堂は鎌倉時代中期の築造とみられる県内最古の木造建造物。源頼朝が三河国守護に命じて建立させた三河七御堂の一つ(ほかの御堂は廃絶)といわれる。昭和29年(1954)の解体修理で瓦葺から、創建時の桧皮葺に復元。翌年に国宝指定された。
深い軒と緩やかな屋根の曲線。装飾を廃してシンプルであるのに気品があり優雅だ。見る位置によって表情を変える。
国宝を独り占めした私は、横から後ろからとその美しい姿に向けてシャッターを切った。
旅の最後に黒部さんと向かったのは金蓮寺から数百メートル西にある尾﨑士郎記念館。
士郎の遺品や直筆原稿、著書などが多数展示されている。息子俵士への生前遺言が掲載された雑誌、愛知第二中学(現岡崎高校)の学生たちを描いた士郎の絵なども。
若い頃の写真はかなりの男前で、作家宇野千代が惚れたのも解るなあ。
昭和29年(1954)から亡くなる昭和39年(1964)を過ごした東京都大田区にあった書斎が記念館横に移築されている。
酒と相撲と文学、そして郷土を愛して66年の歳月を走りぬいた尾﨑士郎の言葉が書斎の傍らに掲げられている。
「私は乾坤一布衣であります」
乾坤は天地、布衣は粗末な衣を着た庶民の意である。
問い合わせ
吉良町観光協会
電話 0563-32-2157
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