尾﨑士郎の墓所・福泉寺を後にして「吉良三人衆」の一人、吉良上野介義央(よしひさ)=1641-1703=の眠る吉良家の菩提寺・華蔵寺を目指す。北西へ一直線―。華蔵寺へと向かう道は、遊歩道として整備され「赤馬の径」と名づけられている。
三河の山々と田園に囲まれた「赤馬の径」をレンタサイクル「赤馬Go!」でのんびりと走る。空気がうまい。春から初夏にかけて、暖かい季節になれば、もっと快適に違いない。
「赤馬の径」の突き当たりにある山の麓に華蔵寺はある。吉良家は鎌倉時代に足利氏が三河守護・吉良荘地頭を務めたことに由来し、室町時代に足利将軍家の一族として幕政の中枢にあった。江戸時代になって吉良家を再興した義央の曽祖父、義定が、菩提寺としたのが華蔵寺である。
吉良上野介義央は「忠臣蔵」では悪役だが、地元では塩田開発や治水をした名君として今も尊敬される。尾﨑士郎は小説「人生劇場・青春編」の冒頭で、こう書いた。
「吉良上野の所領であった横須賀村一圓で『忠臣蔵』が長いあひだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面、吉良上野が彼の所領において人徳の高い政治家であったということの反證にもなるが同時に他の一面から言へば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう」
山の懐に抱かれた美しいたたずまいの華蔵寺には多くの文化財が残る。石段を登りきったところにある中門の木額「華蔵世界」は南画の大家・池大雅の作である。
独特の書体が、教科書でしか知らない歴史上の大画家の体温を感じさせる。ほかにも本堂にある40面の襖絵をはじめ多数の池大雅作品が残されている。同寺の9世澧川(れいせん)和尚が1年半滞在した池大雅と親交を深めたためという。
中門をくぐると本堂。
向かって左手に御影堂。ここに先祖義安、義定と並んで上野介義央の木像が祀られている。
義央が50歳の時に刻ませたものというから、かなり実像に近いと思われる。堂内に「吉良公史跡保存会」による説明書きがあった。
「吉良さんは、この木像の出来栄えに大変満足したようです。顔の部分は自ら彩色したと伝えられています。上品で優しい、穏やかで知的な好々爺、これが本当の吉良さんの顔です。芝居などに見る吉良さんの悪人面など、意図的に憎々しく作り上げたものです。この木像を東京の歌舞伎座に出陳して、全国の歌舞伎ファンにも本物を見てもらいたい思いです」
御影堂の右手には義央ら吉良家代々の墓が並ぶ。ひっそりと建つ義央の墓には真新しい花がたむけられていた。
墓所の奥に進むと緑陰に優美な建物があった。義央が無念の最期を遂げる3年前、元禄13年(1700)に寄進した経蔵。現存する上野介義央が残した唯一の建物で、中には鉄眼一切経が納められている。
300回忌(平成14年12月14日)に記念事業として復元修理。修復前は瓦葺だったが、創建時の柿(こけら)葺きに戻した。棟礼には吉良町民の言葉が記されている。
おらが殿様 慕い続けて 三百年
華蔵寺を後にしてさらに北西に赤馬Go!を走らせる。寺の裏手の山道、竹林を抜けて川沿いに走るとまもなくして「黄金(こがね)堤」が現れた。
吉良上野介義央の善政を証明する史跡である。周辺の新田地帯は川の増水のたびに大水に悩まされていた。そこで義央が貞享3年(1686)にこの堤防を築いて水害を防いだ。隣接の西尾藩は築堤に強く反対したが、義央は決壊したら二度と造らないと約束。領内の老若男女が工事に参加して約180メートルの堤防を一晩で完成させたと伝えられる。吉良さんと領民たちの魂の交流を伝える堤防は春になれば美しい桜が咲き乱れる。
堤の下にある赤馬に乗る吉良上野介義央像の台には尾﨑士郎が義央について書いた「吉良の男」の一節が刻まれていた。
「慕われ、功成り名遂げた後は善行という善行のかぎりをつくし、人生の行路ようやく終わりに近づこうとするに及んで、運命は出し抜けに逆転する」(国宝編に続く)
問い合わせ
吉良町観光協会
電話 0563-32-2157
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