豊臣秀吉と徳川家康が激突した小牧・長久手の戦い(1584)。戦闘の舞台の一つとなった長久手町の長久手古戦場と同町に伝わる勇壮な民俗芸能「長久手の棒の手」の実演を同時に見学できるイベントがあると聞いて、出かけた。(2010年8月21日)
名古屋市営地下鉄の藤が丘駅からリニモに乗って数分もすると左手にこんもりとした森が見えてくる。古戦場公園だ。「長久手古戦場」駅で下車すると公園は目の前。
小牧・長久手の戦いは織田信長亡き後、明智光秀と柴田勝家を破って信長の後継者に躍り出た秀吉と家康・織田信雄(信長の二男)による戦いである。同年3月から11月まで、尾張各地などで戦闘があった。信雄の単独和睦で幕を閉じ、秀吉は全国統一を押し進めていく。一方、家康もこの戦いで天下に実力を示し、秀吉政権下でも別格の地位を保つ。のちの徳川政権樹立の足がかりとなった歴史的戦いだ。(長久手町教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」などより)
古戦場公園は家康軍が勝利した同年4月9日の「長久手合戦」の舞台になったところである。芝生広場や樹林からなる公園として整備されており、園内に国指定の史跡や長久手町郷土資料室がある。
今回のイベントは愛知県が企画した。長久手町郷土史研究会の中野鉄也会長らの案内でまずは史跡巡り。「長久手合戦では両軍合わせて2万人以上が戦い、3500人が戦死したといわれます。当時、長久手は、山や谷が多い湿地帯でした。江戸時代まで多数の人骨が転がっていたそうです」と中野会長。
樹林の中に秀吉軍の武将池田恒興(勝入)の戦死地を示す「勝入塚」がある。
「恒興の母は信長の乳母で、信長とは乳兄弟でした。合戦時は大垣城主で、秀吉に味方しました」と中野会長。これは郷土資料室にある恒興の画像(複写)。
恒興は小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地・岡崎攻めを秀吉に進言、自ら侵攻するが途中の岩崎城(日進市)攻めに手間取って、長久手古戦場のある場所で家康軍本隊と合戦し戦死する。49歳だった。
先のとがった大きな碑(明治の碑)は明治24年(1897)に池田家の子孫と長久手村(当時)の有志が建立。
向かって左にある石柱(明和の碑)は明和8年(1771)に尾張藩士人見彌右衛門と赤林孫七郎が立てた。
「人見らが来たときに、宝永3年(1706)に尾張藩士の福富親茂が立てた標木がありましたが、朽ちていたので石柱を立てたといいます」(中野会長)
そこから園内の古戦場縮景地を迂回した反対側に「庄九郎塚」がある。
恒興とともに参戦した長男池田元助(幼名・庄九郎)の戦死地と伝わる。勝入塚と同様に「明治の碑」(写真右)と「明和の碑」(写真左)がある。
郷土資料室にある「小牧長久手合戦図屏風」(複写)が戦闘の様子を伝える。
よく見ると、その中に池田親子の最期が描かれている。
郷土資料室では、パネルや資料で小牧・長久手の戦いを中心に長久手町の歴史民俗が紹介されている。
これは恒興が陣で用いたとされる鉦(かね)の複製。
ナポレオンのフランス軍と連合国軍が戦った「ワーテルローの戦い」(1815)の舞台となったベルギー王国ワーテルロー市と長久手町は1992年に姉妹都市になった。2階には愛知万博(2005)のサテライト会場「ながくて広場」に展示されていた「ワーテルローの戦いのガラスアート」と「長久手合戦屏風」が展示されている。
イベント後半の「棒の手」実演の様子は次回に―。
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