終戦間際の悲劇伝える「豊川海軍工廠展」~桜ヶ丘ミュージアム

 太平洋戦争終戦間際の昭和20年(1945)8月7日、豊川市にあった兵器工場「豊川海軍工廠」が米軍の空襲を受けて、動員学徒を含む2500人以上が犠牲になった。
 郷土資料の展示や文化活動の拠点になっている豊川市桜ヶ丘ミュージアムでは、東洋一と言われたこの兵器工場の概要と被害の様子を貴重な資料で伝える「豊川海軍工廠展」を開催している(8月29日まで)。豊川稲荷など観光スポットも近くにある同ミュージアム。この機会に是非立ち寄りたい展示会だ。(2010年7月27日取材)

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 名鉄豊川稲荷駅(JR豊川駅)近くの豊川稲荷の北西に桜ヶ丘ミュージアムはある。

 同ミュージアムは豊川海軍工廠に関する資料を2000点以上収蔵。豊川海軍工廠展は毎夏、その一部を展示する恒例イベントで、今年は230点を展示。

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 豊川海軍工廠は昭和14年(1939)に現在の名鉄諏訪町駅北側、旧宝飯郡豊川町・牛久保町・八幡町にまたがる広大な土地に開庁した。同海軍工廠の発展にともなって人口が増加、豊川市誕生(昭和18年6月)に影響を与えた。
 工廠内は機銃部など様々な工場があった。これは当時の配置図。便所や自転車置き場まで細かく書かれている。

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 機銃、弾丸類、双眼鏡など海軍の兵器を生産、機銃生産は日本最大規模と言われた。これは生産されていた弾丸―。

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 こちらはレンズ類―。

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 「最盛期の従業員は徴用工員や動員学徒を含めて5万人以上が交代で勤務していたと推定されます」と担当学芸員の高垣太一さん。
 工場内の食堂の様子を撮した写真や食器類が展示されている―。

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 多くの女子学生も動員された。空襲で帰らぬ人となった少女の制服が悲しい―。

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 豊川海軍工廠が被爆したのは昭和20年8月7日。米軍のB29爆撃機124機、P1戦闘機45機が来襲した。これは空襲前の昭和19年(1944)11月23日に米軍機が上空から撮った写真―。

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 午前10時13分から26分間に3256発の500ポンド爆弾が落とされ、2500人以上の命が奪われた。これは投下された爆弾の破片。

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 被爆後の豊川海軍工廠のあった場所は焼け野原になった―。

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 この悲劇を市民が描いた絵画もたくさん展示されていた。

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 「戦争経験者が高齢化して、後世に伝えることが難しくなっている。資料だけでなく、視覚的に伝える体験者の絵画を残していただくことが必要と考えて募集を続け、毎年展示しています」(高垣さん)
ミュージアム内では当時、動員学生として空襲に遭った人々の生々しい証言などを収めた映像(豊橋市制作)をビデオ上映している。


 「例年、約5000人の方が観覧されます。この種の展示会では多い方です。豊川海軍工廠には全国から働きにきていたので、全国各地から観覧にみえます」と高垣さん。8月7日、15日には午後2時から高垣さんによる解説がある。
 会場には豊川海軍工廠展に合わせて、豊川市と合併した旧御津町の在郷軍人名簿など貴重な兵事資料が展示されている。

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 同ミュージアムによると、兵事資料は終戦直後にほとんどが焼却処分された。残っているのは全国で20数例で、展示品は奇跡的に残された資料の一つという。
 さて豊川海軍工廠跡地や周辺には関連施設が今も残っている。同ミュージアムではその地図を配布しており、見学のための無料レンタサイクルを貸し出している。
 私は豊川稲荷西の緑地にある供養塔を見学することにした。

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 供養塔の台座には亡くなった人々の名が刻まれていた。

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 塔の背後には日本地図と亡くなった人々の出身国・都道府県別人数が刻まれていた。蝉しぐれがやまなかった。

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 豊川海軍工廠の空襲で亡くなった人たちを盆踊りによって供養する「みたま祭り」が毎夏開催されている。今年は8月7日に豊川稲荷境内で、8日に豊川駅前で盛大に行われる。


 


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