(2010年4月10日取材)
徳川家康を生んだ岡崎市には家康ゆかりの名所が数多くある。中でも徳川将軍家の菩提寺・大樹寺は家康の窮地を救い、天下人へと飛翔する転機となった場所である。荘厳な伽藍と貴重な宝物が残る歴史の舞台を訪ねた。(2010年4月10日取材)
名鉄東岡崎駅を降りてバスターミナルへ行くとちょうど大樹寺行のバスが出発するところだった。バスに揺られること20分あまり、広いターミナルとなっている終点の大樹寺バス停に到着。
お寺への矢印看板に従って住宅街の路地を歩いていくと、巨大な木造の門が見えてきた。大樹寺の三門だ。
大樹寺は浄土宗鎮西派で、文明7年(1475)に松平4代親忠(家康の5代前)が松平氏の菩提寺として創建、一時衰退したが7代清康(家康の祖父)が再興した。徳川3代将軍・家光が寛永13年(1636)から大造営をして伽藍が整えられた。
これが寺にある江戸時代の大樹寺の様子を描いた絵図。拡大してみてください。
絵図の右上部に本堂、その斜め左下にあるのが三門。絵図で、三門前の道より下部の辺りは現在、大樹寺小学校の敷地になっている。
三門は家光の造営時に建立された。幕府直轄の建造とあって大きさは県内最大級。
三門をくぐると境内が広がり、正面に本堂がでんと構えている。
境内から三門の入り口を覗いてみる。
道路を挟んだ小学校校庭の向こうに総門、その向こうに岡崎城が見える。本堂―三門―総門―岡崎城と南西に一直線上に遠望できる。
何度目だろうか? 岡崎出身の私は子供の頃から、大樹寺を訪れる度に、覗きからくりのようなこの光景を見てきた。上天気のこの日、はらはらと散るサクラの向こうに岡崎城がくっきりと見えた。
さて本堂正面向かって右にあるのが鐘楼。こちらも家光の大造営時のもので威厳に満ちている。
本堂正面向かって左に多宝塔。
これは清康再興時の天文4年(1535)に立柱。元はこけら葺きで、今は桧皮葺となっている。室町時代後期の渋い建造物だ。
本堂を始め、至る所に葵の御紋がしつらえてある。
ここ大樹寺が日本史上の転換点の舞台となったのは、今を去ること450年前、桶狭間の合戦のときである。
当時、駿府の今川義元の指揮下にあった松平元康(のちの家康)は上洛する義元の命で大高城(現名古屋市緑区)に入った。5月19日、織田信長の急襲で義元が討死すると今川軍は総崩れとなり元康も敗走、大樹寺に逃げ込んだ。寺伝によれば、寺に押し寄せた敵兵に観念した元康は先祖の墓前で切腹をしようとした。
すると時の住職13世登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と経文を唱え、その意を伝えて諭した。
「名将ほど命を重んじるもの。戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目だ」―。
このとき元康19歳。生きて戦うことを決意した元康は、白木綿に「厭離穢土 欣求浄土」と墨描きされた旗を掲げた僧衆とともに奮戦、敵兵を撃退して無事岡崎城へと入る。以後、家康はこの経文を旗印として忍耐強く天下人への道を歩んでいく―。
大樹寺には、驚くべき宝物の数々が秘蔵されている。(宝物編に続く)
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私もサクラの落花がいとおしくなる歳になりました。最近はヒルクライムの「春夏秋冬」を口ずさみながら旅取材をしております。大樹寺へはサクラ満開の時に取材しようと計画していましたが、諸事情でこの時期の取材となりました。でも落花盛んな折りに取材できたのは逆に良かったです。旅も運、巡り合わせですね。
らくだ | 2010年4月20日 09:47 | 返信
落花の大樹寺は、往時に想いを馳せるに相応しい取り合わせ。
覗きからくりは言い得て妙。
加藤俊男 | 2010年4月19日 21:45 | 返信
大樹寺境内から三門の眺め、桜に映えて素晴らしいショットですね!
松平元康(家康)の「厭離穢土 欣求浄土」の由来など、武将観光のドラマに最適ですね!
大樹寺の宝物が楽しみです。