岡崎市東部、名鉄本宿駅近くに徳川家康が幼少時に手習いをした寺がある。大神光二村山・法蔵寺―。家康8歳の時の書や落書きが残る文台(机)など数多くの珍しい宝物、さらに境内には新選組局長・近藤勇の「首塚」もある。深遠な歴史の舞台・法蔵寺を訪ねた。(2010年3月17日)
名鉄本宿駅を降りて国道1号を横断、しばらくそのまま南に歩くと東海道に突き当たる。東海道を東に歩くこと約5分。右手の小高い山(二村山)の麓に山門と伽藍が見えた。
山門をくぐると石段の向こうに鐘楼門、そこを抜けると境内である。正面に本堂、右手に客殿、左手に六角堂、その向こうの小高いところに東照宮が金色の装飾を輝かせている。
寺伝によれば法蔵寺は大宝元年(701)、僧行基が開山した。徳川家の始祖・松平親氏が深く帰依して嘉慶元年(1387)に堂宇を建立、寺号を法蔵寺として松平家代々の菩提寺とした。
家康、幼名・竹千代が同寺に入学したのは8歳のとき。叔父にあたる7世住職の教翁上人に就いて手習い、読書をしたという。河合秀泰52世住職の案内で特別に家康ゆかりの宝物を拝見した。
まず竹千代の書初め。
右上から左下にかけて「松 竹 千代 八才」とあり、朱の手形。日付は「天文十八酉 正月吉日」とある。天文18年(1548)の正月に行った書初めである。
こちらが「御文台」。
竹千代の勉強した机と伝わるもので、城の絵と「竹千代」と書かれた落書きがある。
わかりやすく書き写した紙が机の傍らに置いてあった。
これは竹千代の部屋に祀られた中国伝来の孔子像。
これは「家康の制札」―。
永禄3年(1560)7月9日、法蔵寺に宛て、守護不入の特権を与えたり、境内での伐採禁止などを命じたもの。この年の5月、桶狭間の合戦があった。合戦後、今川家から岡崎城に帰った家康(当時は元康)が、その2ヶ月後に出した書状である。
「勉強で世話になった松平ゆかりの寺に対して、これからは三河の城主としてやっていくから頼んだぞという意志の表れた書状です」と河合住職。
生々しい戦闘用具もある。
これは家康が三方ヶ原の戦い(1573)と長篠の合戦(1575)で着用したという下帷子。
こちらは三方ヶ原の戦いで家康が受難したと伝わる矢。
いっそう謎めいた宝物は「一節切(ひとよぎり)の笛」。
節が一つしかないが、尺八の元祖と考えられている笛で、弁慶作と伝わる。「まむち」と書かれた言葉の意味も不明である。
山門前には「御草紙掛松」という松がある。寺伝によると、竹千代は寺の庭に松を植えて愛玩、手習いのお草紙を掛けた。10数年後に寺を訪れたときにこの松が大きく成長しているのを見て感激、門前に移植した。その後も寺の前を通る度に「いつもの茶を」と頼んでこの松の下でだんごを食べながら茶をすすり休憩したという。
門前の東海道が東西への往来で賑わうようになると、寺では参詣客らに「法蔵寺だんごと、いつもの茶」を提供、名物となった。
「当時、もう一つの名物がありました」と河合住職が現物を見せてくれた。「法蔵寺早縄」―。地元で採れる麻で作った捕縄。明治時代まで名物品として売られていたという。
本堂正面向かって左に六角堂。
その先の木立ちの奥が松平家の霊廟で、家康の父・広忠らの墓が並ぶ。
霊廟を守るように、その入口に近藤勇の「首塚」があった。
慶応4年(1868)に刑死した近藤の墓は東京都三鷹の竜源寺にある。ところが昭和33年(1958)に、法蔵寺の総本山である京都・誓願寺などで「近藤の首は法蔵寺に埋葬されている」との記録が見つかった。同寺によると複数の文献を吟味した結果、その経緯が判明した。
近藤の首は京都三条にさらされていたが、同士が持ち去り、近藤が信頼していた京の和尚に埋葬を依頼しにいった。ところがこの和尚は半年前に法蔵寺に転任していた。そこで徳川家ゆかりの寺でもある法蔵寺に埋葬供養した。時節柄、目立つのを恐れて石碑に土をかぶせて無縁仏のように装ったという。
埋没していた石碑の台石も発掘され、昭和34年の伊勢湾台風時には一緒に埋葬したとみられる剣も露出した。写真はその剣。
新選組ブームの近年、遠方からひっそりと訪れる若いファンも多い。この日も、そうしたファンが置いていったとみられる封書が首塚の前にあった。河合住職は無言で拾い、懐に入れた。
住職に声を掛けようとすると、一陣の風が山木立ちをざわめかせた。音の方向を見上げると東照宮が春の日差しを浴びていた。
問い合わせ
法蔵寺
住所 岡崎市本宿町寺山1
電話 0564-48-2636
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