上半田地区北組の山車組み立て作業現場を一旦離れた私は、名鉄知多半田駅の西にある半田市立博物館を訪れた。ここでは各地区の山車の実物を随時交代で展示、山車文化にまつわる資料も見ることができる。(2010年2月28日取材)
この日、展示されていたのは岩滑新田奥組の山車。
山車は疫病や天災を招く悪霊を鎮めるものと言われ、全国各地に山車祭りがある。尾張地方の山車は名古屋型、知多型、犬山型に大別される。
「半田に現存する31の山車の建造年代は文政9年(1826)から昭和2年(1927)。かつては古くなると他地区に譲渡したので、他地区には半田の山車より古いものがある」と同博物館専門員の山田晃さん。
山田さんによると半田の祭りは宝暦5年(1755)の「尾陽村々祭礼集」に乙川村の山車4両と下半田の3両が載っていることから少なくとも約250年の歴史がある。同博物館に展示されている宝暦5年の乙川八幡社の祭礼絵図には山車を引き回す様子が描かれている。
江戸時代には江戸の祭りにも山車が出たが、明治に入って電線や市電の普及で通行不能となり姿を消していく。半田でも大正3年(1914)に電灯がともったが、電線を約7メートル以上の高さに張ることで問題をクリアしたという。半田市民の山車への思いを象徴する逸話だ。
山車は約1000の部品から形成されているが、木目の美しい彫刻が見所だ。前回も触れた彫常こと初代新美常次郎の彫刻刀が展示されている。その中に木製の彫刻刀の型がある。
「彫刻刀を作る職人に発注するときに、これと同じものを作れと渡したもの。繊細な作業をする彫師は既製品ではなく自分に合った道具を必要としたためです」と山田さん。彫師の鬼気迫る芸術家魂が伝わってくる。
上半田地区の山車にはないが、山車といえばからくり人形。半田の31の山車のうち20の山車にからくり人形がある。写真は亀崎青龍車石橋組の「唐子(逆立ち)遊び」。
そろそろ上半田北組の山車が全貌を現す時間だ。
市立博物館をおいとまして紺屋海道に急いだ。
到着するとちょうど上半田地区北組の山車「唐子車」が組み上がり、神官による清めが行われていた。
半田の各地区では地元の豪商や庶民たちが身分を超えてひとつとなり「日本一の山車を造る」と財力と知力、体力を注ぎ込んできた。
上半田地区北組では大正12年(1923)の2代目の唐子車の造営の際に、あと一息というときに問題が起きた。木材相場の変動で見積りが狂って、資金が底をついてしまったのだ。残るは羅紗幕で、これはすでに名古屋の伊藤呉服店(のちの松坂屋)に発注済みであった。
ここで登場したのが紺屋海道で米問屋を営む市郎兵衛。「俺に任せておけ」とばかりに市郎兵衛は店子数人を伊藤呉服店に丁稚奉公に出す代わりに無事、羅紗幕を完成させたという。市郎兵衛の営んだ米問屋は現在、手焼きせんべいの「米市」として紺屋海道の名所になっている。
山車が動き出した。本番前の試し引きだ。山車を引く長い綱の先頭付近は地区の女性や子どもたち。さらにはっぴ姿の若い衆が続く。
狭い紺屋海道を練り歩く、というより走る感じ。かなりのスピードで民家の軒をかすめていく。
「米市」や古い黒板の蔵がある風情のある細い路地を山車がいく。巨体をゆすりながら走る生き物のようだ。
直角に曲がった角での方向転換が見せ場の一つ。
この世の厄災を載せて他界へと向かう山車に追われながら、私は夢中でカメラのシャッターを切った。
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